幸せに生きるための、たった1000のこと

〜幸せのヒントブログ〜

どこまでが自己犠牲?

【1000個中の 878個目】

 

こんにちは! 研究者せしおです。

 

 

僕は、自己犠牲してまで他者のために頑張るような価値観は苦手です。

それだと続かなかったり、憎しみのきっかけになったりしそうだからです。

ですが、客観的にみて僕が自己犠牲してないのか、他者にみる自己犠牲は本当に自己犠牲なのか。

改めて考えてみたいと思います。

 

 

たとえば、家で料理をしていて、お皿に取り分ける時。

子供の好きな食べ物を少し多めに入れたりします。

自分も好きな食べ物を他者に多めに入れる。

自己犠牲とも言えなくはないとふと思いました。

とても些細なことですが、こういうところにヒントがある気もします。

僕は自己犠牲をどこか嫌っている節があるのですが、こうやって考えると自分もしているかもしれません。

 

 

次に、とある上司の例。

部下が働かない分を自分でカバーしようと残業する。

僕からしたら、そこまでしなくていいし、そこまでやられると部下も若干ありがた迷惑。

ちゃんと与えられた時間内で仕事をやるように部下に指導しながら、自分はそれを破っている。

きっと、その上司は真面目なのでしょう。

良かれと思い込んだり、仕方なしと思い込んでいるように見えます。

自己犠牲の感覚を持ってやっているかは不明です。

 

 

本人が自己犠牲して他者に貢献しようとした場合。

うまくいかなかったり、他者から感謝されなかったりすると、本人へのダメージが大きい気がします。

そこから憎しみなどの副作用が生まれることもそれなりにあると思います。

 

 

一方、他者にとっては自己犠牲に見えるのに、本人としては自己犠牲と思ってない場合もありそうです。

他者にとっては辛いことでも、本人にとっては辛くないことをやっている場合もありそうです。

そういう場合は副作用は少ない??

 

 

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↑ 子育てに苦労は少なからずありますが、過度な自己犠牲することなく、僕は僕の人生を楽しんでいるつもりです。

 

 

自己犠牲自体、物語ではとても美しく描かれることがあります。

物語は別として、現実では僕は自己犠牲に悪いイメージを持っています。

1つの偏見ですけど。

僕の偏見を深掘ると、苦しんで自己犠牲するのは悪いイメージですが、苦しまずに自己犠牲するのは悪いイメージではないのかもしれません。

 

 

他者の受け取り方もありますね。

自己犠牲という行為に重たさを感じるとすると、ありがた迷惑の時、それでもありがたい時がありそうです。

両方ある場合もありそうです。

なにも感じない場合もありそうです。

 

 

んー、色々なケースがありそうで、結論にたどり着きそうにありません。

ハハハ。

 

 

以上です。

今日も最高の一日を!