【1045個目】
こんにちは! 研究者せしおです。
引き続き、哲学者の國分功一郎さんの「暇と退屈の倫理学」(新潮文庫)を読んでいます。
本書が問いたいのは、暇の中でいかに生きるべきか、退屈とどう向き合うべきか。
暇の中で退屈してしまい、与えられた楽しみや快楽に身を委ね、安心を得る。
それでも、心のどこかでは何かが違う、何かがおかしいという気持ちを持つものだ。
生きていることの意味の不在。
大義のために死ぬことにすら、心の底では憧れてしまうこともある。
ここからは僕の話。
本書を読み進める前に、「退屈とどう向き合うべきか?」について考えてみたいと思います。
会社で仕事をしている中では、人一倍、暇や退屈を大事にしていると勝手に思ってます。
新しいことを考えるためには、余裕が必要だと思うからです。
それでも、やっぱりそれなりにせわしく働いているようにも思います。
GPT-4などが騒がれていますが、そのうち、人間の能力がコンピュータよりだいぶ劣るようになると思います。
そうなってからしばらく経つと、人間は仕事をしなくてよくなるかもしれません。
暇や退屈に人間が耐えられなくなるとすると、仕事をしなくてよいということがいいことなのか、よくわかりません。
僕は研究という仕事が好きですが、コンピュータが僕よりも良い研究をするのであれば、僕自身が研究をする意味を見い出せなくなる気がします。
ただ楽しんでいればよいとなった時に、楽しむことができるのか、僕には少し不安があります。
なぜなら僕は、なんとなく意味を求めて生きている気がするからです。
でも、自分にできることがないとわかったら、罪悪感なくただただ楽しめるのかもしれません。
↑ 怠惰な生活が推奨された時、勤勉でありたい人はどうなるのでしょう。
「退屈とどう向き合うべきか?」でしたね。
僕は、家の中でも楽しく過ごせる気質だと思っています。
本を読んだりテレビを見たり散歩したりして過ごすだけというのも、得意な気がします。
でもやっぱり、生きる意味の不在を乗り越えられるかが、僕の課題のように思います。
怠惰に幸せに生きていいという社会的な雰囲気が高まってくれば、それでいいと思えるようになるものなのかもしれません。
「退屈とどう向き合うべきか?」について、本書を読み進めながら、引き続き考えていきたいと思います。
以上です。
今日も最高の一日を!