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こんにちは! 研究者せしおです。
今日のキーワードは「意志」
久しぶりに1500字を超えました。
ご注意を。
ご覚悟を。
ハハハ。
まずは社会心理学の話。(の僕の理解)
現代社会では人々に意志があるというものは当たり前のように思われている。
人間は意志によって行動を自由に選んでいると思われている。
しかし、古代ギリシャには意志の概念はなかったと言われるほど、意志というものは実は当たり前のものではない。
意志は責任と深く関係している。
例えば、誰かが犯罪を犯し、自供した場合。
自分の意志でやったのだから社会システムとして罰することができる。
意志によって責任が生まれる。
意志は現代の社会システムを維持する上で根本的な概念である。
これは当たり前のことだろうか?
犯人は何かの理由があってその犯罪を犯した。
その何かにも何かの理由があって。
何かの何かにも理由があって。
実際には人の行動は環境に左右されていて、物事には無数の因果関係があるはずだが、そうすると誰にも責任を押し付けられなくなってしまう。
いくら無数のきっかけがあったとしても、たまたま悪い結果を引き起こした人がいる。
その人の意志によって悪い結果が起きたもとすることで、その人に責任を押し付けることができる。
意志というものを作り上げることで、因果関係を断ち切る。
便宜上、意志というものが無から有を生み出せるものと定義している。
論理的に考えれば、人々に自由な意志があるものとして結果の責任を押し付けることには無理がある。
しかし、社会システムを維持するためにこの便宜上の意志という概念もまた維持される。
ここからは僕の話。
意志の概念は現代社会にとっては当たり前であるが、人間の歴史的には当たり前ことではない。
これは驚きでした。
確かに人間は環境に左右されまくるので、自分の意志でどこまで行動できているかはわかりません。
そして、自分の行為が悪い結果を引き起こすかどうかは制御不能なことも多い。
良い結果も同じですね。
でも、責任を追及するときは突然として意志が全てを引き起こしたものと捉える。
当たり前だと思っていた意志と責任、自由と責任という言葉は社会システム的に便利だから使われているのかもしれない。
そう思うと、少し社会が違って見えるような気がします。
なんとなーく。ハハハ。
僕はたまたま運良く犯罪者ではないのであって、運悪く犯罪者になっている可能性もたくさんあったはず。
これからも。
そう考えると、結構怖いです。
車の運転もそうですね。
どんなに気をつけたって、加害者になる可能性はゼロではない。
そして、加害者になった途端に、自分の意志で不注意なりをしたものとみなされて罰せられる。
↑石。ハハハ。
僕はテレビドラマや小説でサスペンスが好きです。
犯人が本当に悪い奴の場合もありますが、運悪く犯人となる場合も多いです。
軽く人を殴った時、相手がなんともなければ何も問われません。
喧嘩して仲良くなるというシーンも多いです。
一方、運悪く角に頭をぶつけて相手が亡くなれば殺人者です。
この2つの場合に行為者の意志として何の差もなくても、刑罰には天と地の差があります。
運良く何も悪い結果につながらなければ、何も起こらないし、罰せられることらない。
運悪く犯罪者となれば罰せられ反省させられる。
全く同じ思いで同じことをしたとして、なぜ罰せられる人とそうでない人に分かれるのか。
理不尽そのものですが、なぜかそういうものだと受け入れてしまっている自分もいます。
なんだか難しい話題を持ち込みましたが、特に結論はありません。
ハハハ。(←4回目?少し多用しすぎましたかね)
以上です。
今日も最高の一日を!